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9話 盗ませるための物語

作者: 6jay
last update 公開日: 2026-09-20 12:13:31

翌朝、偽の場面を書き上げるまでに、一時間かかった。

ホテル・ラルーチェの三十一階で、きっかり八秒間の停電が起きる。ヒロインは白い椿のブローチに録音機を隠し、暗闇の中で彼のジャケットに留める。

本当の次回作には、ホテルも録音機も出てこない。登場人物の名前も仮のものにした。

わざと、目立たない細部も入れた。復電後、エレベーターの表示に、存在しない三十二階が一度だけ映る。筋だけを読んで莉奈が思いつくには、不自然な組み合わせだった。

文章を書くことには慣れている。誰かが盗むのを待つために書くのは、初めてだった。普段なら人物の動機を三度は直す場面を、紗月はそのままにした。仕上げすぎると、いつか自分の作品に使いたくなりそうだった。

クラウドへ上げる前に、真紀と怜司へ送った。タイトル、作成日時、ファイルのハッシュ値も保存してほしいと頼んだ。

怜司からは、すぐに返事が来た。

〈ストーリアのサーバーに、受信した状態のまま保存します〉

ファイル名は『次回作_後半_修正案』。直人がときどき確認する、代表者確認用フォルダに置いた。補助作業用のアカウントには、アクセス権のない場所だ。

莉奈には新しいファイルの話をしなかった。直人には、前日の食卓で、次回作の後半を書き直しているとだけ漏らしておいた。一人が正当な権限で開き、もう一人へ渡す可能性もある。莉奈が保存済みの認証情報で直接入る可能性もある。いずれにせよ、今必要なのは流出経路を決めつけることではなかった。

アップロードしたのは、午前十時十二分。

十時二十九分。見覚えのないWindows端末がファイルを開いた。

ダウンロードの記録も残った。

紗月は、それが誰の端末なのか、すぐには追わなかった。アクセス履歴を保存して真紀へ送り、いつもの原稿へ戻る。一段落を直しているあいだも、画面右下の時計ばかりが目に入った。

午後一時を過ぎても、連絡はなかった。

直人は会社にいる。莉奈は来ない日だ。二人があの文書を見て何を話すのか、考えるだけで胃がひっくり返りそうだった。

パソコンを閉じ、食卓についた。朝、直人が使った皿がシンクに残っている。縁に、米粒がひとつ乾いていた。

洗うか、そのままにするか迷って、水につけた。手の慣れたことは、考えずにできる。

直人からメッセージが来た。

〈新作の後半、直してるんだっけ。今日中に終わりそう?〉

紗月は画面を長く見ずに答えた。

〈まだわからない。どうして?〉

〈いや。無理するなって思って〉

普段も言いそうな言葉だった。ただ、このところ直人が聞くのは何話目を書いているかだけで、どこを直しているかではなかった。

〈うん。夕飯は家で食べる?〉

〈食べる。早く帰るよ〉

やり取りが終わって三分後、クラウドの履歴に、同じファイルを開いた記録が増えた。今度は二分十一秒。

午後二時八分、怜司から電話が来た。

「はい、一ノ瀬さん」

『今、お話しできますか』

「大丈夫です」

『ページオンから、高瀬莉奈さんのデビュー作の修正企画書が提出されました。午後一時四十六分です』

紗月は濡れた手を布巾で拭いた。

「入っていましたか」

『ホテル・ラルーチェの三十一階。八秒間の停電。白い椿のブローチ。三つとも入っています』

「文章も同じですか」

『企画書は要約なので、丸写しではありません。ただ、偶然と考えるには、組み合わせが具体的すぎます』

「三十二階の表示も?」

『あります。変わっているのは、人物名だけです』

怜司は企画書そのものを送るとは言わなかった。サイトに提出された、他人の資料だからだ。代わりに、受付時刻と比較結果を内部記録として残すと言った。

「私が作った場面だと、証明できますね」

『こちらが元ファイルを受信したのは、ページオンの提出より三時間以上前です。先生のファイルの過去の版も保存されています』

「それなら、いいです」

『大丈夫ですか』

紗月は水につけた皿を見下ろした。

「大丈夫ではありません。でも、確かめないといけなかったので」

『企画書の原文はお渡しできませんが、比較記録については森川先生からも保全依頼を受けます』

「お願いします」

『また先生のアカウントにアクセスがあったら、すぐ知らせてください。今はファイルを消したり、アクセスを遮断したりせずに』

怜司は、自分が何とかするとは言わなかった。紗月の望みを確認し、その範囲でだけ動いた。

電話を切ったあと、真紀からメッセージが来た。流出した細部と、それぞれの時刻をまとめた証拠一覧だった。

いちばん下に、ページオンが提出したファイルの情報が添えられていた。

企画書が受け付けられたのは、紗月のファイルが最初に開かれてから、三時間十七分後。

文書の情報には、二人の名前がそれぞれ残っていた。

提出者、藤崎直人。

作成者、高瀬莉奈。

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